【プラネチカ・リポート】
被害者に沈黙強いるNDA、「自分のことなのになぜ話してはいけないの?」
▼セクハラ発言で移籍求める
「女性を軽視してきた日本や韓国の歴史が現代のハラスメントを引き起こし、それへの対応が不十分なことで被害のさらなる深刻化を招いている」
そう憤るのは、韓国人のベック・ソンイさんだ。
米カリフォルニア州サンフランシスコを本拠地とするグローバル企業の日本法人、株式会社セールスフォース・ジャパン(東京都千代田区)やその傘下の韓国オフィスで勤務する間に性的嫌がらせに遭い、人種差別にもさらされた。会社に被害を申告し、聴き取り調査を要請したが、その条件として秘密保持同意書(Confidentiality Agreement)に承諾することを求められた。ベックさんはNDAのように他者に口外してはならない指示だと受け止めた。
ベックさんは言う。「なぜ自分に起きたことを誰にも話してはいけないのでしょうか。危険人物がいれば、第二、第三の被害者を出さないためにも女性同士で情報を交換することは重要です」

セールスフォース・ジャパン=東京都千代田区
1986年韓国ソウル市生まれのベックさんは父の転勤に伴い、幼少時から海外を転々として生活、日本や米国などに留学し、国際的な企業でキャリアを積んだ。2022年、セールスフォースの日本法人に内定したが、コロナ禍だったためまず地元の韓国オフィスで勤務を始め、半年たらずで日本法人に移った。
顧客関係管理(CRM)や営業支援(SFA)などのサービスをグローバルに展開するセールスフォースは、多言語話者のベックさんが大いに力を発揮できる就職先だった。
日本での勤務を始めて半年以上が過ぎた頃、ベックさんはチームの会食に参加した。その席で日本人男性の上司がアフリカのある国で勤務していたことについて語り、民族紛争に話題が及んだ。
内紛では村人たちが虐殺され、女性は強姦されたなどと話した後、上司が「こんなことを人前で話すべきではないかもしれないが…」と前置きしたため、もっと悲惨な話が続くと予想したベックさんは、手で耳をふさぎ「聞きたくないので、やめてください」と頼んだ。上司は構わず「俺は若かりし頃、周りの女性をはらませたかった」「男性は自分のDNAを残したいんだ」などと続けたという。
その後も、震災時の対策について開かれたオンライン会議中に「ベックさんのような1人暮らしの女性は、地震が起きて避難所に行ったらレイプされる」といった発言をしたため、この上司のもとで働くことに苦痛を感じていたところ、運良く韓国オフィスに異動することになった。
それでも韓国オフィスが日本法人の傘下に置かれていることから、元上司との関係を完全に断つことはできず、ベックさんは不適切な発言を続ける元上司と勤務上も関わりを持たなくても済むよう、今度は米国法人のチームへの移籍を求めた。
移籍は承認されたものの、2024年9月、日本から韓国に出張して来た当該の元上司とそのチーム3人の対応をすることになり、ベックさんは歴史認識の歪みによる差別的発言にさらされた。
ベックさんによれば、上司は会食の場で「南京大虐殺はなかった。アメリカ人が歴史を偽り、日本人を洗脳しているんだ」「韓国は日本の植民地ではなく、併合されただけだ」などと話した。
なんとか話題を変えようと、ベックさんはプライベートな話を振った。すると今度は、以前「聞きたくない」と伝えたにもかかわらず、「女性をはらませたかった」といった内容の発言が繰り返された。
翌日、この会食に同席していた男性同僚2人へメッセージを送り「傍観しているだけでなく、一緒に発言を止めてほしい」と伝えた。だが寄り添うような回答は得られず、ベックさんがさらに傷つく結果になった。

ベック・ソンイさん(本人提供)
▼「自分が受けた被害のことなのに…」
こうした問題を日本法人の「従業員関係部門」の担当に相談したものの、担当者自身が多忙であることを理由に、アジア太平洋地域担当と話すよう指示があった。
数日後に連絡があり、申告について面談が設定されることになった。ただ、聴き取りの担当は男性だった。そればかりか、このオンライン面談の招待状を承諾すると、添付された文書に同意したことになるという仕組みになっていた。文書には以下のようにあった。
「…本調査は可能な限り、慎重かつ秘密裏に行うよう努めてまいります。つきましては、相談者におかれましても同様、本件の申し立てに関する情報の開示を従業員関係部門のみに限定していただくようお願いいたします。秘密義務に違反した場合、調査の妨害と判断され、懲戒処分(解雇を含む)の対象となる可能性があります」
「自分が受けた被害のことなのに、他の誰とも話せないとはどういうことか…」。ベックさんは承諾を拒否して、すぐに米国を拠点として活動する非営利団体「Lift Our Voices」にこのことを問い合わせた。
同団体は、ジャーナリストのグレッチェン・カールソンさんが同僚のジュリー・ロギンスキーさんと2019年に共同創設したアドボカシー(権利擁護)団体だ。カールソンさんは2016年、在職中にセクシュアルハラスメントを受けたとして、米フォックス・ニュースの会長で最高責任者でもあったロジャー・エイルズ氏を提訴した。その後、同社では被害を訴える女性たちが相次ぐ。全米、そして世界に拡大していく「#MeToo運動」の口火を切った一人と言われている。
▼米国、英国での法制化
カールソンさんは、被害者が職場における性暴力やセクハラを口外できない仕組みがあることを問題視し、その撤廃を求める運動を推し進めてきた。
米国では2022年3月には「職場での性暴力やセクハラを非公開の仲裁手続きへと強制する雇用契約上の条項を禁じる法律(Ending Forced Arbitration of Sexual Assault and Sexual Harassment Act)」が成立。さらに同年12月には性暴力やセクハラに関する紛争前の秘密保持条項について法的効果を制限する法律「スピークアウト法(Speak Out Act)」も成立している。いずれも連邦法だ。
カールソンさんは今年7月、ニューヨークタイムス紙のオピニオン欄で、この法制化により19の州でNDAの使用が制限され、ニュージャージー、カリフォルニア、ワシントンの各州においては禁止されたことに触れた。
「この法律によって、多くの被害者が声を取り戻すことができるのです。ハラスメントや差別、報復行為を訴える労働者は、もう沈黙を強いられることはありません」。そうカールソンさんは述べている。
また英国でも2025年、ハラスメントや差別を訴える労働者に対して事実上の口封じを目的としたNDAを無効とする法案が可決された。
英ガーディアン紙によれば、NDAは本来、知的財産や事業にかかわる機密情報などの保護を目的としていたが、ハラスメントや人種差別を告発させないように広く活用されるようになったという。
若い女性の4人に1人は、失職することを恐れて職場でのセクハラに声を上げないとの調査結果もあり、英国政府は労働者保護や生産性向上などを背景として、この法律を将来的には派遣労働者やフリーランスに適用することも検討しているという。

グレッチェン・カールソンさん(本人提供)
▼日本でも広がりつつある秘密保持契約
では、日本ではどうか。モルガン・スタンレーMUFG証券株式会社で働いていた韓国籍の男性が人種的ハラスメントを訴えたが、秘密保持契約を基にした守秘義務違反などを理由に解雇されたケースがある。男性は社内調査の結果が不十分だとして、経営陣らに事案を知らせるメールを送り、これが違反とされた。男性側は解雇無効や損害賠償を求めて提訴したが、東京地裁は2024年6月、訴えを退けた。
明治大学専門職大学院の志水深雪教授は、外資系企業の増加に伴い、NDAのような口外を禁止する契約書は日本でも広がりつつあると懸念する。労働者が自由に被害を告発できなくなることを問題視し、日本においても議論を促す。
米国のような規定がない中で、ハラスメントなど職場の問題を訴える際にNDAへの同意を求められたら、会社の一方的なやり方には疑義があるということや、やむを得ず署名することを意思表示した上で、会社の人事やハラスメント窓口に相談することが重要だという。
志水さんは「NDAへの同意を求めることは、二次被害を起こしたり加害を温存したりすることにつながる。被害が周りに認知されず、労働者にとって見えない損失となる。労働者に不安を与えているのなら、早急に議論すべき課題だ」と話す。
志水さんは同時に、ワークルールなどを通して、労働者が自分の権利について学ぶ必要性も指摘する。
▼コアバリューに反する行為
ベックさんのもとにカールソンさんからのメールが届き、セールスフォースが提示した秘密保持契約は、性暴力やセクハラに関する紛争前のNDAであるため法的強制力は持たないこと、米国を拠点とするすべての企業には法令遵守する義務があることが付言されていた。
メールには「各地に支社を持つグローバル企業においても、地域ごとに法律の適用を変えるのではなく、セクハラや性暴力の訴えに関するNDAを世界的に完全撤廃することを決めた」とあり、例として同じテック企業であるマイクロソフトやアップル、グーグルを挙げていた。
その後、会社からは、ベックさんが告発したケースについては「加害事実が記録と証人証言により裏付けられ、加害者は日本の就業規則に基づき処分された」と報告があった。一方、加害者への処分内容については「プライバシー保護のため」開示することはできないと言われた。
調査は終了したが、ベックさんは満足した対応も結果も得られなかった。
セールスフォース・ジャパンは筆者の問い合わせに対し「調査の文脈において社員にNDAへの署名を求めることはありません。ハラスメント調査期間中は公正性を担保するために、厳正な機密保持手続きを必要とする考えであり、社員には協力を求めています。これは『口止め』ではなく、公正なプロセスを保証するための標準的な手続きです」と説明する。
個別ケースについてはプライバシー保護の観点から開示できないとするが「国籍や歴史的背景に基づき同僚を侮辱したり、不快感を与えたりする行為は当社がコアバリューとする『Equality(平等)』に反する行為であり、容認いたしません。こうした行為が確認された場合には適切な措置を講じています」と回答した。